樺太の呼び方の話。
さて、こちらの画像をご覧ください。
はい、だた色々な駅名に樺太が付いたり松前が付いたりするだけですね。
実はここに深い意味があります、という只の解説になりますがお付き合いいただければと思います。
まず大前提として、私の想定では「戦争末期に辛うじて樺太を保持した状態で終戦を迎えた」状態です。この状態だと、アメリカは日本の南樺太統治を認めるが、ソ連は自国領として速やかな開放を求めている、という状態に陥るのではないか、という妄想です。
北樺太は、戦前よりソ連が「サハリン州」として統治していました。
終戦後、ソ連は南樺太を編入すると宣言し、南サハリン州を新設します。
しかしアメリカおよびイギリスはこれを認めず、あくまで日本領と扱いました。
この結果、1946年段階で日本は南樺太の領有権を主張し、ソ連はサハリン全土の領有権を主張していました。ご存じの通り、樺太のロシア語はサハリン。つまり「樺太=サハリン」。ところが同時に、日本では樺太庁が南樺太を統治していたため「樺太=南樺太」でした。この二義性が最悪の失言を招きます。
衆議院の答弁にて吉田茂外務大臣が「樺太は日本の領土であります。」と発言。
これに対し、ソ連は厳重な抗議を実施。最終的に発言を撤回することで和解したが、
日本政府が「樺太」という発言に非常に慎重になります。
現在、樺太を地域分割して「樺北」「樺中」「樺南」と呼称する場合が有りますが、
これは「南樺太北部」「南樺太中部」「南樺太南部」と当時呼称していたものが簡略化されて残っている物です。それくらいまでに「樺太」という表記を避けるようになっていました。
それから時は移り変わって1956年(昭和31年)10月19日。日ソ共同宣言が署名された日と時を同じくして、「樺太島における地域の呼称に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の宣言」(以下:樺太サハリン宣言)が署名されます。
この内容は「北緯五十度より北をサハリン、南を樺太と呼称し、島全土を指す場合は『島』を冠する」というものです。
「両締約国との間において将来に行われる、国境の制定に関する協議を妨げるものではない。」という但し書は付きましたし、北方二島に関する問題は先送りとなりましたが、当座樺太の問題は解決されました。
こうしてようやく、再度「樺太」が呼称できるようになりました。
以前は他地域と呼び方が被ってしまった時「新」を付けて区別をしていましたが、
かなり理解に難があるという事で「樺太」を冠するべきという意見が多数発生していました。国の政策という足かせがようやく外れ、サンヨントオ改正と同じくして樺太東線西線の名称が切り替わるこのタイミングで、ようやく一斉に駅名の改称が行われました。
因みになのですが、大沢、中野、野田の各駅に関しては本州に同一駅名が存在する為、定期券の関係上改称に手間がかかったそうです。
(上野駅まで2日から3日掛かると言われた当時、果たして被りが問題となるような定期券を利用した人が本当に存在したのかどうかは謎ですが。)
S25市町村名記憶解説【戦後分町村編】
と言う訳で、初樺太関連動画を公開致しました。
先に郡や市町村をまとめた画像が有った方が見やすいとは思うのですが、
編集が間に合わずいきなり解説からとなる事をお許しください。youtu.be
戦後分町村とは
終戦直後から1953年(昭和28年)に掛けて行われた町村分立・分離のことを指します。
目的(動画内に一部ありましたが)
主要な目的は、戦前の「樺太庁」引いては拓殖省、内務省が管轄する国主導の行政から、地方自治体主導の行政への移行を目指すことでした
この段階では樺太内の交通の便は鉄道への依存状態が続いており、迅速な行政が行える限界は、精々集落程度でした。その為、戦前は町村役場まで往復丸二日かかる事も珍しくない地域が多数ありました。
これらを考慮した結果、新生樺太庁(1947年(昭和22年)3月28日に地方自治体として発足)によって、生活圏を分断しない形で、かつ面積分町村後の上限を1000㎢とする分町村基準が各町村へ通達されます。
但し、
- あくまで「基準」であり、戦前の庁令ほど絶対的なものでは無かった点
- 分町村後の面積が対象で、現状の面積についての改変を求めていない点
に留意が必要です。
経過
その後、1947年(昭和22年)11月3日に恵須取町が市制施行の際に上恵須取村を分離したのを皮切りに、1948年(昭和23年)1月12日、留多加町から河西村、大豊村の分村と続き、全域にて一斉に分村が始まります。
この分町村により、多くの市町村が自治権を手にし、戦後引き揚げによる人口爆発に見合った人口にそれぞれ調整される形となりました。
但し、一部の町村では「切り離し分村」とされる人口希薄地帯を切り捨てる形で新設した村を分離する場合が有ります。これは特に終戦直後から昭和23年に掛けて樺太の食糧需要が安定せず市町村による米の配給が難しかったこと、人口増加が有ったとはいえ、山間部まで管理することが難しかったことなどが理由として挙げられます。
また1950年(昭和25年)6月5日の新通達まで、「分村後の最低人口に制限がない」という制度上の重大な欠陥が有りました。地方自治法七条より、市町村の廃置分合では庁議会の承認を得る必要は有りました。しかし、特に戦後混乱期が長く続いた樺太においては1947年(昭和22年)の国政調査を含めて正確な人口統計が行われておらず、居住人口が正確に把握できないまま、庁議会で分離分立が承認されてしまいました。
1950年(昭和25年)6月5日、分町村後の村に関する制限が通達されると、新規分町村への動きは鈍化します。また人口3,000人程度の村でも財政状況が悪い場合が多いことが徐々に広まると、新規分町村への反対運動が一部展開されるようになり一部は分離を断念する事例も発生しました。
こうした流れを受け、1952年(昭和27年)4月21日の奥沢町分離(泊居町より)を最後に戦後一斉分町村は終結することとなります。
この後は分村の流れから反転し、町村合併促進法や新市町村建設促進法を通して、結果的に元の市町村に合併した場合や、分立した町村同士での合併などが行われた町村も一部存在します。
(1950年以降の流れについてはまた後々作成していこうかと思っています。)
樺太開発局について
駅名記憶動画作者、常磐貨物兼安中貨物と申します。
が、こちらでは樺太開発局として活動させて頂いております。
深い事情があるという訳でもありませんので、適当な名前で呼んでいただければ幸いです。
さて、このブログでは「樺太が日本領であったら」どうなるか、という架空地理の活動記、あとは動画の説明等々をします。
はい。
全く持って新鮮味の無い活動です。
取り敢えず自分なりに独自性を出せたらいいな、とは思って居ますが。
大まかな現実改変を行う可能性の部分だけ先にお知らせ致します。
・樺太が日本領になった理由について、詳しくは別に記しますが
「日本が樺太に於いては勝利、その後米ソによって占領され、北緯五十度以南は日本領化」という流れへと至ります。
・上記を達成する為に一部の宣言を反故にしたことにより、
米ソ冷戦は史実より悪化します。
・同様に日ソ関係はペレストロイカ迄は緩やかな改善に留まります。
・市町村名・駅名や国道の附番などは、現実に近づけるため史実の附番が変更されます。
・樺太・北海道は、それぞれ樺太「庁」、北海道「庁」と称し、
「庁」が正式な広域地方公共団体の名称となります。
・南樺太北西部から石油が産出されます。
(史実でも日本時代に正確な調査は実施されていませんから可能性は僅かですがあります。)
・上記により、北海道内、九州等各種炭山は、史実よりも早期に衰退します。
長々お書きしてしまいましたが、まだまだ設定の浅く、できるだけ避けたいとは思いますが設定を追加する部分もあるやもしれません。
できるだけ史実を変更せず、歴史を含む様々な観点から見て現実味の高い、樺太架空地理を目指していきたいと思います。
(樺太日本領の時点で歴史のリアリティは薄いという指摘はご容赦ください…)
どうぞ温かい目で見守って下さると幸いです。