S25市町村名記憶解説【戦後分町村編】

と言う訳で、初樺太関連動画を公開致しました。

先に郡や市町村をまとめた画像が有った方が見やすいとは思うのですが、

編集が間に合わずいきなり解説からとなる事をお許しください。youtu.be

 

戦後分町村とは

終戦直後から1953年(昭和28年)に掛けて行われた町村分立・分離のことを指します。

目的(動画内に一部ありましたが)

主要な目的は、戦前の「樺太庁」引いては拓殖省、内務省が管轄する国主導の行政から、地方自治体主導の行政への移行を目指すことでした

 

この段階では樺太内の交通の便は鉄道への依存状態が続いており、迅速な行政が行える限界は、精々集落程度でした。その為、戦前は町村役場まで往復丸二日かかる事も珍しくない地域が多数ありました。

 

これらを考慮した結果、新生樺太庁(1947年(昭和22年)3月28日に地方自治体として発足)によって、生活圏を分断しない形で、かつ面積分町村後の上限を1000㎢とする分町村基準が各町村へ通達されます。

但し、

  • あくまで「基準」であり、戦前の庁令ほど絶対的なものでは無かった点
  • 分町村後の面積が対象で、現状の面積についての改変を求めていない点

に留意が必要です。

 

経過

その後、1947年(昭和22年)11月3日に恵須取町が市制施行の際に上恵須取村を分離したのを皮切りに、1948年(昭和23年)1月12日、留多加町から河西村、大豊村の分村と続き、全域にて一斉に分村が始まります。

この分町村により、多くの市町村が自治権を手にし、戦後引き揚げによる人口爆発に見合った人口にそれぞれ調整される形となりました。

但し、一部の町村では「切り離し分村」とされる人口希薄地帯を切り捨てる形で新設した村を分離する場合が有ります。これは特に終戦直後から昭和23年に掛けて樺太の食糧需要が安定せず市町村による米の配給が難しかったこと、人口増加が有ったとはいえ、山間部まで管理することが難しかったことなどが理由として挙げられます。

また1950年(昭和25年)6月5日の新通達まで、「分村後の最低人口に制限がない」という制度上の重大な欠陥が有りました。地方自治法七条より、市町村の廃置分合では庁議会の承認を得る必要は有りました。しかし、特に戦後混乱期が長く続いた樺太においては1947年(昭和22年)の国政調査を含めて正確な人口統計が行われておらず、居住人口が正確に把握できないまま、庁議会で分離分立が承認されてしまいました。

 

1950年(昭和25年)6月5日、分町村後の村に関する制限が通達されると、新規分町村への動きは鈍化します。また人口3,000人程度の村でも財政状況が悪い場合が多いことが徐々に広まると、新規分町村への反対運動が一部展開されるようになり一部は分離を断念する事例も発生しました。

こうした流れを受け、1952年(昭和27年)4月21日の奥沢町分離(泊居町より)を最後に戦後一斉分町村は終結することとなります。

この後は分村の流れから反転し、町村合併促進法や新市町村建設促進法を通して、結果的に元の市町村に合併した場合や、分立した町村同士での合併などが行われた町村も一部存在します。

(1950年以降の流れについてはまた後々作成していこうかと思っています。)